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『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー 原卓也訳 新潮文庫

あらすじ

物欲の権化のような父フョードル・カラマーゾフの血を、それぞれ相異なりながらも色濃く引いた三人の兄弟。放蕩無頼な情熱漢ドミートリイ、冷徹な知性人イワン、敬虔な修道者で物語の主人公であるアリョーシャ。そして、フョードルの私生児と噂されるスメルジャコフ。これらの人物の交錯が作り出す愛憎の地獄絵図の中に、神と人間という根本問題を据え置いている。
19世紀中期、価値観の変動が激しく、無神論が横行する混乱期のロシア社会の中で、アリョーシャの精神的支柱となっていたゾシマ長老が死去する。その直後、遺産相続と、共通の愛人グルーシェニカをめぐる父フョードルと長兄ドミートリイとの醜悪な争いのうちに、謎のフョードル殺人事件が発生し、ドミートリイは、父親殺しの嫌疑で尋問され、容疑者として連行される。
父親殺しの嫌疑をかけられたドミートリイの裁判がはじまる。公判の進展をつうじて、ロシア社会の現実が明らかにされてゆくとともに、イワンの暗躍と、私生児スメルジャコフの登場によって、事件は意外な方向に発展し、緊迫のうちに結末を迎える。
ドストエフスキーの没する直前まで書き続けられた本書は、有名な「大審問官」の章をはじめ、著者の世界観を集大成した巨編である。

コメント

人類の創造した史上最高の文学作品。人類史上最大の文学者ドストエフスキーがオムスク監獄での四年間の経験から『死の家の記録』を書き、さらに『地下室の手記』『罪と罰』『白痴』『悪霊』と書き深めてきた人間存在とその救済可能性についてのテーマが、ここに結実している。江川卓によるとカラマーゾフの後にもう一つの作品(皇帝暗殺にまつわる話)が書かれる予定であったというが、もし書かれていたらカラマーゾフと並んで全人類に対する予言と啓示の書となったであろう。大審問官のテーマはキリスト教の物語をドストエフスキーが独自に深めていった内容であり、カラマーゾフの中核テーマを成す。
イワンとアリョーシャの対話はさながら悪魔とキリストの対話であるかのようである。
この物語の主人公をイワンとする読みもあるが、やはり主人公はアリョーシャである。アリョーシャが主人公である理由、「心大きな」という言葉の真の意味がわかるならば、『カラマーゾフの兄弟』を読めている、と一応言えるのではあるまいか。

『白痴』ドストエフスキー 木村 浩訳 新潮文庫

あらすじ

スイスの精神療養所で成人したムイシュキン公爵は、ロシアの現実について何の知識も持たずに故郷に帰ってくる。純心で無垢な心を持った公爵は、すべての人から愛され、彼らの魂をゆさぶるが、ロシア的因習のなかにある人々は、そのためにかえって混乱し騒動の渦をまき起こす。この騒動は、汚辱のなかにあっても誇りを失わない美貌の女性ナスターシャをめぐってさらに深まっていく。
エゴイズムと粗暴さの権化である商人ロゴージン、誇り高い将軍家令嬢アグラーヤ。彼らは、ムイシュキン公爵とナスターシャとの仲に翻弄され、ついにロゴージンは、二人の結婚式の当日、ナスターシャを奪い去り刺し殺してしまう。
<白痴(ばか)>と呼ばれるムイシュキン公爵は、「無条件に美しい人間」を現代において創造しようとするドストエフスキーの悲願の結晶でもあった。

コメント

「キリスト公爵」ともいわれるムイシュキン公爵を創造し得ただけで成功していると言える作品。ムイシュキンはドストエフスキー自身の存在の投影でもある。ドストエフスキーは自らの体験をムイシュキンに投影して語るが、その体験は死刑直前の刑の執行中止、であった。人間存在における無条件の美とは何かを探究した作品。
ナスターシャ・フィリポヴナとムイシュキン公爵、この二人が求心点である。汚濁にまみれたナスターシャはその救済をロゴージン、アグラーヤ、ムイシュキンにそれぞれ差し向ける。アグラーヤの無垢さは救済可能性に映るが、しかしその内実は幼さにすぎなかった。ムイシュキンとナスターシャはあまりに似すぎているがゆえに、お互いの救済にはなりえなかったのだろう。結局ナスターシャはロゴージンに殺されることで、救済される。
ちなみに『白痴』はドストエフスキー自身が一番愛した作品であったという。

『ディヴィッド・コパフィールド』ディケンズ 中野好夫訳 新潮文庫

あらすじ

誕生まえに父を失ったデイヴィッドは、母の再婚により冷酷な継父のため苦難の日々をおくる。寄宿学校に入れられていた彼は、母の死によってロンドンの継父の商会で小僧として働かされる。自分の将来を考え、意を決して逃げだした彼は、ドーヴァに住む大伯母の家をめざし徒歩の旅をはじめる。
伯母にひきとられてトロットウッドと名を改めたデイヴィッドは、伯母の好意によりカンタベリーの学校に通うようになる。法律事務所をひらくウィックフィールドのもとに寄宿した彼は、ウィックフィールドの娘アグニス、書生のユライア・ヒープなどの人々と出会う。やがて学校を卒業した彼は、代訴人の見習いとして生活を始める。
幼友達エミリーと親友スティアフォースの駆け落ちは、デイヴィッドを悲しみのなかにつきおとした。その彼を救ったのは、子供のような心を持った娘ドーラとの愛だった。そして彼女との密かな婚約。しかし、その幸せもつかの間、伯母の破産、婚約の発覚、ドーラの父スペンロウの死、見習いとして勤める法律事務所の解散など、激しい運命の変転が次々と彼を襲う。物書きとして生計をたてるようになったデイヴィッドは、ドーラとも結婚し安定した生活をおくっていた。しかし、そんな彼をおそったのはうち重なる不幸だった。愛する妻ドーラの死、別れた友スティアフォースの死。傷心のうちに外国を彷徨う彼の心にうかぶのはアグニスとの至上の愛の思い出だった。故郷に戻った彼は彼女のもとに安住の地を見出す。

コメント

ディケンズ自身の自伝的要素も多分に含む長編傑作。ディケンズ本来のヒューマニティ溢れる作風、物語そのもののストーリーテーリングの面白さを十分含みながらも、自伝的要素が多く含まれるためリアリズムに富み、人生そのものの深み、多元性を暗示させる作品に仕上がっている。「面白くて為になる」文学の王道を行く名作古典。
ディケンズの作品では、人物描写が面白い。やや紋切り型になる面もあるが、魅力的な人物造形がなされている。伯母、ウィックフィールド、アグニス、ユライア・ヒープ、エミリー、スティアフォース、ドーラ、みな非常にはっきりと人物像が描かれており、理解しやすく、面白い。ディケンズのこのストーリーテーリングの上手さは他の作家と比較しても抜きん出ているといえるだろう。近年、「物語の復権」と言われ、ディケンズ流のストーリー重視の所謂「読ませる」作品が英米文学でも見直されてきているのは良い傾向だと思う。物語性を完全に排除してしまっては文学の持つ魅力、豊かさが損なわれてしまうと考えるからだ。ディケンズ自身、『デイヴィット・コパフィールド』が一番好きだと語った、「物語」の面白さがぎっしりと詰まった逸品である。

『ファウスト』ゲーテ 高橋義孝訳 新潮文庫

あらすじ

世界の根源を究めようとする超人的欲求をいだいて、ファウストは町へ出る。理想と現実との乖離に悩む彼の前に、悪魔メフィストーフェレスが出現、この世で面白い目をみせるかわりに、死んだら魂を貰いたい、と申出る。強い意志と努力を信じる彼は契約を結び、若返りの秘薬を飲まされて、少女グレートヒェンに恋をする。
追求の精神の権化ファウストは、行為の人として<大きな世界>での遍歴に入る。享楽と退廃の宮廷から冥府に下った彼は美の象徴ヘレネーを得るが、美はたちまち消滅してしまう。種々の体験を経た後、ついに彼は、たゆまぬ努力と熱意によって、人間の真の生き方への解答を見いだし、メフィストーフェレスの手をのがれて、天上高く昇る。

コメント

言わずと知れたゲーテの代表作。他に『若きウェルテルの悩み』『ヘルマンとドロテーア』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』『親和力』『イタリア紀行』『色彩論』などがある。
また、晩年の弟子エッカーマンとの間に、『ゲーテとの対話』もある。(ただし、『ゲーテとの対話』は、エッカーマンの著。)
ファウストは前半と後半の間に六十年の歳月があり、その為前半と後半では文体にも変化が見られる。この変化こそ人生の年輪そのものである。
ファウストは、ゲーテの人生の記念碑的作品である。『若きウェルテルの悩み』の頃の叙情性はファウスト前半部分に、ワイマール公国での宰相の実務はファウスト後半部分に、イタリア紀行で得た古代ギリシア世界の知識もファウスト後半部分に、それぞれ生かされている。
また、ファウスト前半では、『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』につながるような、演劇の要素も見受けられる。ファウストはゲーテの辿った人生そのものを象徴している。
ゲーテの全人格的完成はすべての人の目標とすべきものであろう。「人間として充実した生を生きる」ことは、すなわちゲーテのように生きることに他ならない。
ちなみに『ファウスト』の原型は、民間伝承として存在していたが、ゲーテが自らの生涯を賭した大作として作品化したことでより知られるようになった。

『魔の山』トーマス・マン 高橋義孝訳 新潮文庫

あらすじ

第一次大戦前、ハンブルク生れの青年ハンス・カストルプはスイス高原ダヴォスのサナトリウムで療養生活を送る。無垢な青年が、ロシア婦人ショーシャを愛し、理性と道徳に絶対の信頼を置く民主主義者セテムブリーニ、独裁によって神の国をうち立てようとする虚無主義者ナフタ等と知り合い自己を形成してゆく過程を描き、<人間>と<人生>の真相を追究する。
カストルプ青年は、日常生活から隔離され病気と死に支配された<魔の山>の療養所で、精神と本能的生命、秩序と混沌、合理と非合理などの対立する諸相を経験し、やがて<愛と善意>のヒューマニズムを予感しながら第一次大戦に参戦してゆく。

コメント

トーマス・マンの代表作。『魔の山』と呼ばれるスイスの高山サナトリウムで、主人公ハンス・カストルプが成長を遂げていく姿を描いている。モラトリアムの時間を過す若者の心理を上手く描いている。イタリアの人文主義者セテムブリーニ、虚無主義者ナフタ、ロシアのショーシャ婦人、男性的なぺーペルコルンらとの出会いが、カストルプを成長させている。『ファウスト』『ツァラトストラ』と並んで、人間真理の探究という大テーマに正面から挑んだ作品。トーマス・マンはゲーテには及ばなくとも、偉大な作家である。他に『トニオ・クレエゲル』もある。どちらも比較的読みやすい。トーマス・マンは反ファシズム発言などでも有名。『魔の山』はトーマス・マンの作品の中では重要な作品。

『八月の光』フォークナー 加島祥造訳 新潮文庫

あらすじ

臨月の田舎娘リーナ・グローブが自分を置去りにした男を求めてやってきた南部の町ジェファスン。そこでは白い肌の中に黒い血が流れているという噂の中で育ち、「自分が何者かわからぬ」悲劇を生きた男ジョー・クリスマスがリンチを受けて殺される…素朴で健康な娘と、南部の因習と偏見に反逆して自滅する男を交互に描き、現代における人間の疎外と孤立を扱った象徴的な作品。

コメント

アメリカ南部の複雑な歴史を描いた一大叙事詩。プロテスタント(ピューリタン)のキリスト教精神、ギリシャ的な異教的世界、南部のプランテーションと奴隷制と擬似ヨーロッパ的階級社会、黒人問題、南北戦争とその敗北の記憶、南部の保守性などについての様々な要素をフォークナーは架空の土地ヨクナパトーファ郡ジェファスンに織り込み、ドストエフスキー的な神話と人間社会の交錯するサーガを構築した。『八月の光』はフォークナーのヨクナパトーファ・サーガの中の代表的な作品の一つで、南部社会の深い闇と光をジョー・クリスマスやリーナの生き方から描いている。

『大いなる遺産』ディケンズ 山西英一訳 新潮文庫

あらすじ

貧しい鍛冶屋のジョーに養われて育った少年ピップは、クリスマス・イヴの晩、寂しい墓地で脱獄囚の男と出会う。脅されて足枷を切るヤスリと食物を家から盗んで与えるピップ。その恐ろしい記憶は彼の脳裏からいつまでも消えなかった。ある日彼は、謎の人物から莫大な遺産を相続することになりロンドンへ赴く。優しかったジョーの記憶も、いつか過去のものとなっていくが…。
謎の人物から莫大な遺産の相続を約束されて、貧しい生活から一変して贅沢三昧の暮しにひたりきり、今や忘恩の徒となりはてた主人公ピップ。彼の前に、その謎の人がついに姿を現わした。彼の運命は再度一変する。痛烈な皮肉、豊かなユーモアと深いぺーソスをたたえて、市井の人間たちの生活に息づく喜びと悲しみ、美しさと醜さを余すところなく描き、文豪後期の代表作をなす長編小説。

コメント

ディケンズ後期の代表作。『ディヴィット・コパフィールド』のような自伝的作品ではないが、彼独自のストーリーテーリングの上手さとヒューマニティー溢れる人物造形が光る作品である。特に人物造形についてはピップとジョーの描き方が絶妙で、人間くさいピップと仲が良くて人の良いジョーの関係が素晴らしく、温かく優しいジョーの姿が読み手の心を打つ。

『ドクトル・ジバゴ』ボリス・パステルナーク 江川 卓訳 新潮文庫

あらすじ

凋落しつつある資産階級に生まれ、母の死後、モスクワの親戚宅に引き取られたユーリイ・ジバゴは医師を志していた。一方、ロシアに帰化したフランス人の娘ラーラは母の愛人との泥沼の関係を断ち切り、新しい生活を築こうとしていた。やがて人々に第一次世界大戦とロシア革命の波が襲いかかる…。動乱の時代を背景に波乱の運命が待ち受けるジバゴとラーラの青春を描く。革命の混乱を避け、ワルイキノへ逃れたジバゴ医師はラーラと宿命的な再会を果たす。身も心もラーラにのめり込んでいくジバゴだが、運命は二人を遠ざけていく。やがて全てに失望したジバゴはモスクワに隠棲し、<ジバゴ詩編>を残して狂気の内に死を迎える。美しいラブ・ストーリーに様々なシンボルをちりばめ、普遍的な倫理と思想を織り込んだ20世紀最大の大河ロマン。

コメント

ロシア革命とは実際のところどのようなものだったのかということを知ることのできる貴重なノンフィクション性を内包した文学作品。全体としては主人公ジバゴとラーラの恋愛を軸に、革命の大混乱の中で翻弄される社会とジバゴ自身の変転のようすと、その変転をジバゴがどのように見つめ、そして理解していたかということが語られる。旧社会において社会体制の中枢に近い資産階級に生まれ育ち、自身も医師として高い社会的地位を持つジバゴだが、革命の大変転の前にはなすすべもなかった。そして共産党の運動などを通じて台頭してくる中産階級や下層階級、無産者階級出身の人々に対して、新しい時代を担うエネルギーを感じ、また出身階級は異なっても、優秀な人物は存在するのだと冷静に理解する。自身は郊外での農業による自給自足の生活をも行い、隠遁した知識人として生活する。最後にはモスクワで詩を書く生活を行い、革命の大変転によっても変わり得ない人間存在の普遍の真実を詩に託し、ラーラとの恋の思い出を胸に、死んでいく。
社会の大変革期に時代に翻弄されながらも恋愛に、そして詩作に生きた一知識人の物語。動乱期ロシアの社会の真実を描いた大河ドラマである。

『悪霊』ドストエフスキー 江川 卓訳 新潮文庫

あらすじ

1861年の農奴解放令によっていっさいの旧価値が崩壊し、動揺と混乱を深める過渡期ロシア。青年たちは、無政府主義や無神論に走り秘密結社を組織してロシア社会の転覆を企てる。…聖書に、悪霊に憑かれた豚の群れが湖に飛び込んで溺死するという記述があるが、本書は、無神論的革命思想を悪霊に見たて、それに憑かれた人々とその破滅を、実在の事件をもとに描いたものである。
ドストエフスキーは、組織の結束を図るため転向者を殺害した“ネチャーエフ事件”を素材に、組織を背後で動かす悪魔的超人スタヴローキンを創造した。悪徳と虚無の中にしか生きられずついには自ら命を絶つスタヴローキンは、世界文学が生んだ最も深刻な人間像であり“ロシア的”なものの悲劇性を結晶させた本書は、ドストエフスキーの思想的文学的探究の頂点に位置する大作である。

コメント

過渡期ロシアの中でピョートルとスタヴローキン、ピョートルの父ステパン氏とワルワーラ夫人、その他多くの人々がそれぞれ繰り広げる行動と発言には、時代の混迷、価値観の変転と動揺の色がはっきりと浮かび上がる。既存の価値体系や権威が崩壊し、無政府主義や虚無主義、様々な悪徳が蔓延していく時代の趨勢の中で、前時代の人物ステパン氏とワルワーラ夫人は、それと意図せざる間に、次の時代の虚無と悪徳と混沌の申し子であるピョートルやスタヴローキンを生み出してしまう。シャートフ、キリーロフ、ヴェルホーエンスキーやリャムシン、シガリョフらもまた時代の混迷の中で、それぞれの思想と社会革命の理想により行動するが、グループを操るピョートルとスタヴローキンらの思惑に影響を受ける。日本の連合赤軍事件やオウム事件の際にも見られた革命集団内の粛清・リンチ構造は19世紀ロシアにすでに見られていた。混迷期ロシアで実際に起こった「ネチャーエフ事件」を題材とし、聖書の記述と重ね合わせて、アノミー状態において悪霊に憑かれたように行動し破滅する群衆を描いたこの作品は、いつの時代にも混迷の世紀末的状況、社会規範の崩壊と混沌とアノミー化の状況下でいつも起こってくる社会状況を的確に描き、いつの世にも起こりうる人間と社会状況の間の真実を描いた、ドストエフスキーの思想的もしくは社会学的探究の結果創造された、最大級の傑作の一つである。

『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』ゲーテ 山崎章甫訳 岩波文庫

あらすじ

舞台は十八世紀封建体制下のドイツ。一女性との恋に破れ、演劇界に身を投じた主人公ヴィルヘルムは、そこで様々な人生の明暗を体験、運命の浮沈を味わう。ヘルマン・ヘッセやトーマス・マンらが範としたドイツ教養小説の代表作。
「憧れを知る者のみが、わが悲しみを知る」ミニヨンと竪琴弾きの哀切を帯びた歌の調べ。『ハムレット』上演を機に、ヴィルヘルムは演劇の世界について様々に思いを巡らせる。
秘密結社<塔>の主宰者、神父から修行証書を授けられ、ヴィルヘルムの修行時代も終わりを迎える。登場人物たちの意外な関係が次々に明らかとなり、物語は結末に向かって収束してゆく。ミニヨンと竪琴弾きの哀しい運命等、理性を超えたものの余韻を残しつつ…。

コメント

いわゆるビルグゥントゥス・ロマンの典型であると同時にその手本ともなった作品。主人公ヴィルヘルムは踊り子に恋をし、また演劇に情熱を燃やすが、世間を知らぬお坊ちゃんであった。その彼は劇団と行動を共にして、劇にも参加し、旅行を続ける中で、様々な人々、例えばミニヨンや竪琴弾きや劇団の団長などと出会い、また様々な事件や人生の悲哀をも体験する。これらの幅広い体験の中で次第に人間的に成長していく様を描いている。また、小説内小説の形で挿入されている「美わしき魂の告白」には、書かれた文章の中の世界と(作品中の)現実世界とが交じり合う形でも物語が進められる。ヴィルヘルムの修行はある意味で神が定めたもうたもの、という展開になっており、秘密結社の人間のせりふや秘密結社<塔>の主宰者、神父との儀式や修行証書の授与、などを通じて、いわばある種の成人式のような形でヴィルヘルムの修行時代も終わりを告げる。
自己形成と自己確立のための模索の時期、疾風怒涛時代を的確に描いたゲーテの自己形成ロマンの最高傑作。

『虐げられた人びと』ドストエフスキー 新潮文庫

あらすじ

民主主義的理想を掲げたえず軽薄な言動をとっては弁明し、結果として残酷な事態を招来しながら、誰にも憎まれない青年アリョーシャと、傷つきやすい清純な娘ナターシャの悲恋を中心に、農奴解放を迎え本格的なブルジョア社会へ移行しようとしていたロシアの混乱の時代における虐げられた人びとの姿を描く。人道主義を基調とし、文豪の限りなく優しい心情を吐露した抒情溢れる傑作。

コメント

冒頭のスミス老人とその飼い犬であるアゾルカの死と、ディケンズの作品の作中人物から想を得た少女ネリーの姿と死が印象深い作品。語り手ワーニャとネリー、イフメーネフの老夫婦、ナターシャとアリョーシャ、アリョーシャを後ろで操るワルコフスキー公爵らが錯綜し物語が展開する。この作品では虐げる側のワルコフスキー伯爵、ワルコフスキーに利用される息子アリョーシャと、虐げられる側のスミス老人、犬のアゾルカ、スミス老人の娘であるネリーの母、少女ネリー、イフメーネフ老夫婦、娘のナターシャ、語り手で小説家であるワーニャ青年の側にはっきりと分かれており、その点では比較的分かり易い作品である。アリョーシャの病的ともいえる主体性のなさ、子どもっぽさ、無垢さ、純粋さ、素直さは全ての人に愛される要素を持ちながら、しかし父ワルコフスキーの老獪な政治戦略により利用され、結果的に人びとを虐げる存在になってしまう。それに対して少女ネリー、ネリーの母、スミス老人とその犬アゾルカらは、ネリーの母がワルコフスキー公爵の直接の被害者であることもあり、虐げられる存在として強烈な印象を残す。特にネリーは全くの虚構内存在であるにもかかわらず、小説内で生き生きと動き回る。少女ネリーの心理と行動はこの作品を全体として印象深いものとしている。そのほかは主に財産をめぐるワルコフスキーとイフメーネフの争いや、語り手ワーニャとワルコフスキーの対面シーン、ワーニャとネリーの対話やワーニャとナターシャのやりとりが作品を複合的なものにしている。主題そのものはドストエフスキーの他の作品と比較してあまり深刻なものではなく、恋愛と虐げる側・虐げられる側の構図が軸となっているので、楽しい作品であるが、やや深みに欠くところもあるとも言える。ただ、登場人物の配し方、人物描写、人物関係の網の目の張り巡らし方などが巧みで、そのために凡庸にならずに、小説全体として成功しているとも言えるだろう。ワルコフスキー公爵・アリョーシャの存在の背景、必然性が深められ、ネリーの存在の意味がワルコフスキー公爵との関係で意義付けられるならば、より主題としても深められたかもしれないが、この作品はそこまで深刻であるよりも、ある意味で人間に対して素朴な肯定性のあるこの作品の味を残した現在のままの形の方が、まとまりもよく、また作品として魅力的であろう。愛すべき傑作の一つである。

『死の家の記録』ドフトエフスキー 新潮文庫

あらすじ

思想犯として逮捕され、死刑を宣告されながら刑の執行直前に恩赦によりシベリア流刑に処せられた著者の、四年間にわたる貴重な獄中の体験と見聞の記録。地獄さながらの獄内の生活、凄惨目を覆う笞刑、野獣的状態に陥った犯罪者の心理などを、深く鋭い観察と正確な描写によって芸術的に再現して、苦悩をテーマとする芸術家の成熟を示し、ドストエフスキーの名を世界的にした作品。

コメント

ドストエフスキーの作家としての原点となったオムスク要塞監獄での四年間の囚人生活に想を得て、その体験を土台にして、ドストエフスキーにしては珍しく精密なリアリズムの手法を用いて描かれた作品。ドストエフスキーは死刑執行直前の恩赦の体験とこのオムスク洋裁監獄での四年間の体験を、作家としての小説内の人物造形や、ロシア庶民の世界の理解のために生かした。主な作品の登場人物のモデルや、作品のモチーフもこの間の体験から得たものが多い。作品自体は、ほぼドストエフスキーの体験に基づき、体験を文学的な視点、芸術としての視点で再構成してあると考えて良い。ツルゲーネフの「浴場の情景はまったくダンテ的です」という賞賛の言葉にあるように、浴場の場面は印象的で、まさしくダンテ『神曲』の世界が現出したかのように、凄惨な状況が克明に描かれている。
浴場の場面のみならず、この作品には監獄における人間模様が緻密に描かれ、そのフィクションでは構築しかねるような荒唐無稽とも思える様々な人物の本性が曝け出された描写は驚きの一言である。人間が監獄という極限状態に置かれた時、露呈する人間としての奇妙な本性、性癖、性格、人間関係や生き残るための助け合い、喧嘩、かけひき、取り引き、のすべてが、ここには描かれている。監獄という、人間が人工的に作り出した「死の家」、人間の動物園のようなこの場所が暴き出す、隠し立てのできない獣としての人間の滑稽とも思える哀れな真実が、この作品の中に凝縮して描かれていると言える。
ドストエフスキーはこの「死の家」オムスク要塞監獄での四年間を、労役、生活、そして入院の中で過ごした。監獄では人間の全てが顕わになる。監獄は人間博物館である。そこにはあらゆる種類の人間が展示されている。監獄はさながら人間をピンでとめ、昆虫採集の蝶の標本のようにケースにしまい込まれているかのようである。そこにはあらゆる種類の人間がおり、そしてあらゆる想像を絶する奇矯な本質を曝け出している。監獄は社会の凝縮した縮図であり、そこではあらゆる過去を持った囚人たちが生きている。強盗や殺人、思想犯、政治犯など、監獄に至る理由は様々であり、また監獄での滞在期間も人によって様々である。
監獄は人間を人為的に追い詰め、極限まで苦しめる。文字通り人間を追い込むのである。追い込まれた人間は人間というよりも一匹の獣としての性癖を顕わにする。ここではだれも社会的な身分でものを考えない。ここは監獄なのである。ここではあらゆるものを剥奪されたあとでも残る人間の人間たる部分が、最も顕わになる所なのである。この『死の家の記録』は、監獄体験から生まれた人間の本質的な生態を顕わに示す傑作である。

『ガープの世界』ジョン・アーヴィング 株式会社サンリオ 

あらすじ

子供は欲しい、だが結婚はしたくない。そう考えた看護婦が、全身に包帯をまきつけて入院していた技術軍曹(テクニカル・サージァント)から「欲望なし」で精液をもらいうける。これがT・S・ガープ出生の由来である。やがて母が学校看護婦として住み込んだ名門校にガープも学び、レスリングに熱中する。だが、コーチの娘ヘレンに作家の方が好きといわれたことから作家志望に変わる。さて、18歳でガープは、母ともどもウィーンに移り、母は自伝の、ガープは小説の執筆にとりかかる。そして自伝『性の容疑者』は超ベストセラーとなり、8ヵ国語に翻訳され、母は初めての女性運動家に祭り上げられ、まわりにフェミニスト、性転換した巨漢の元フットボールのプレイヤー、強姦され、舌を切られた少女の事件に抗議して自らの舌を切り取るエレン・ジェイムズ党員たちが集まってくる。
一方、やがて傑作となるガープの『ペンション・グリルパルツァー』には、ガープ的世界をシンボリックに背負う一輪車に乗る訓練された熊が登場する。
やがてヘレンと結婚したガープは、ふたりの男の子の父となる。ところで、話はここで急転換する。州立大学で助教授をしているヘレンが、車の中で浮気相手の学生といたところへ、子供たちと映画帰りのガープの車が追突したのだ。一人の子供は死に、もう一人は左眼をえぐられ、ガープは顎を折り、舌を目茶苦茶に切って針金で口を縛っている。ヘレンも鼻がつぶれ、首を痛め、歯を折った-ちょうどくわえていた相手のペニスを4分の3も噛み切ってしまったのだ。こうして家族は、母の邸で療養することになる。そしてガープは、本書と同じように猥雑で、センセーショナルな暴力と救いのないセックスと、優しくて、道徳的で、血まみれなメロドラマを装った『ベンセンヘイバーの世界』を書きはじめるのだ。そしてやはり本書と同じように金と名声と非難中傷をもたらすのだ。
やがて母は、ニューハンプシャー州知事選の応援演説中に暗殺される。母の葬式の帰りに会ったエレン・ジェイムズを養女にすることにしたガープも、それから端を発してエレン・ジェイムズ党員の凶弾を浴びることになる。

コメント

噴き出すような悪趣味な冗談、誇張されたユーモア、ディケンズ張りの読みやすい巧みなプロットを駆使して、ガープから見た、ガープを囲む、ガープの世界を築いて、「ガープは実在する」のスローガンとともに、商業的にも、文学的名声においてもすさまじい事件と化した話題作。『ガープの世界』の魅力は、これはジョン・アーヴィング作品の魅力でもあるのだが、「読ませる」ストーリーテーリングの面白さ、これに尽きるだろう。特に『ガープの世界』ではこの作品自体が一種のメタ小説になっており、作品の構成自体にも工夫が凝らされている。また、メロドラマ的ともいえる生の肯定があり、しかし、その代償として多くの傷と不確実な未来像が存在する。この作家のテーマとして、「性」の問題が挙げられる。フェミニズムも絡めてセックスと傷や欠落、身体的欠損、性と生、生の不確実性と、それでも生を肯定していくというひとつの世界像を構築した筆者の出世作にして傑作である。

『1984年』ジョージ・オーウェル 新庄哲夫訳 ハヤカワ文庫

あらすじ

1984年、世界は三つの超大国に分割されていた。その一つ、オセアニア国では<偉大な兄弟>に指導される政府が全体主義体制を確立し、思想や言語からセックスにいたるすべての人間性を完全な管理下に置いていた。この非人間的な体制に反発した真理省の役人ウィンストンは、思想警察の厳重な監視をかいくぐり、禁止されていた日記を密かにつけはじめるが…社会における個人の自由と人間性の尊厳の問題を鋭くえぐる問題作。

コメント

ジョージ・オーウェル『1984年』はザミャーチン『われら』やハックスリー『すばらしい新世界』と同様に、全体主義下の逆ユートピアを克明に描いた、傑作である。ジャンルとしてはS・F、サイエンスフィクションに分類されるタイプの作品だが、全体主義という政治と社会、文化・文明が一体となった構築物を描き出す為には、フィクショナルな形で監視社会、全体主義社会を構築してみせて、その歪み、いびつさ、本性、仕組み、恐ろしさを炙り出すという手法が一番効果的であり、またこういった手法以外には表現が難しいといえるだろう。このタイプの先駆的形態にスウィフト『ガリヴァ旅行記』がある。全体主義や思想教育の恐ろしさ、プロパガンダとメディア、権力、戦争、イデオロギーの恐怖という点では、特に20世紀に入ってからは共産主義、ナチズムなどの形で具現化してしまったともいえ、知の絶対化、権力化、秘密警察や密告が横行し、全体主義一色の社会の恐ろしさは、全体主義の戦争志向性をも含めて、現代社会に生きる我々にも身近なる危機と言えるだろう。現代社会においても、冷戦崩壊後、そして特に9.11後の世界は急速に全体主義化を志向してきており、この傾向はアメリカ・欧州のみならず日本にも現れている。
アメリカにおけるジョージ・ブッシュ大統領の全体主義・戦争志向性を批判した『華氏911』などの映画、ファシズム台頭と感化のプロセスを啓蒙的に描いた『茶色い朝』などの作品も併せて理解すべきだろう。『1984年』の内容において重要なのは、言語(「新語法<ニュースピーク>」と呼ばれるもの)にまで入り込んだ全体主義イデオロギーとその巧妙な人心掌握の手法、そして主人公の最終的な「改心」(つまり洗脳)に至る心理的なプロセスである。いかにしてイデオロギーが人の心を宗教的な形をもとりながら染め上げていくか、その内実を理解することはいわゆる文学における「文学と政治」の問題や、福田恒在の「一匹と九十九匹」の問題をも含めて極めて重要である。なお、全体主義そのものの本質的な理解を深めるには、ハンナ・アレントの『全体主義の起源』を参照すべきと思われる。自由主義、資本主義、民主主義・個人主義が極点にさしかかると、むしろ不自由主義、(ある種の)共産主義、非民主主義、共同体主義が台頭し、これが国家主義や全体主義へと変貌していくという傾向は歴史的に見ても言えることだが、この現象の本質的理解を行うことが極めて重要であると言えるであろう。ナチズムの台頭を許し、アウシュヴィッツを生み出してしまった人類史上の汚点を繰り返すことなく、全体主義台頭を抑止する為にも、このジョージ・オーウェル『1984年』は人類必読の書と言えるのではあるまいか。

『異族』中上健次 中上健次選集2 小学館文庫

あらすじ

「路地」に生まれたタツヤ、在日韓国人二世のシム、アイヌモシリのウタリ―胸の同じ場所に、同じ形の青アザを持ち、互いの血を啜り合って義兄弟の契りを結んだ三人の屈強な男たち。そのアザの形に旧満州の地図を重ね見る右翼の大立者・槙野原は、空手の猛者である三人を前に、青アザの三勇士による満州国の再建を説く。
右翼への傾倒と、三人の確執。自らの根源を求めての闘争と呻吟。数奇な運命に導かれるように次々と姿を現す青アザの<異族>たち。
海を越え、民族を越えた混沌の中に日本の根を問い、文学の未知なる地平に挑んだ中上健次最後の超大作。

コメント

『異族』は、初期作品から芥川賞受賞作『岬』、毎日出版文化賞・芸術選奨文部大臣賞新人賞受賞作『枯木灘』、そして『地の果て 至上の時』を書き、紀州熊野の「路地」世界を舞台に、錯綜する地縁・血縁関係の中で生きる人間たちの崇高な生と死を、近代小説を超克するスケールで描き続けた中上健次の、最後の探究の証である。「路地」(被差別部落)生まれの初の表現者である中上健次は、初期作品、特に『十九歳の地図』などで都市における若者の青春の焦燥感、苛立ちを描き、その後『岬』で出身地和歌山・熊野を舞台とした本格的近代小説を書き始めた。共同体とその近代資本主義の受容による崩壊過程を家父長的な「父殺し」というソポクレス『オイディプス王』以来の近代文学の主題や、交錯する路地の交通、噂、特に「兄弟心中」のような伝承、「キンジニヤニヤ」の鼠浄土の話のような口承伝承をも生かしながら壮大な現代の神話を「路地」を舞台として書き上げた『枯木灘』によりその地位を確たるものとした。次の『地の果て 至上の時』においては、既に崩壊過程に入っていた「路地」共同体の最終的な解体・崩壊を「水の行」の事件や山の民六さん、そして最終的な主人公による父殺しの主題を行おうとするが、家父長的父の自殺の形で父殺しは頓挫する。そしてこの作品以降解体した路地を改めて見出していく『鳳仙花』『千年の愉楽』『奇蹟』らの作品群と、「路地」共同体の崩壊を受けて、路地の若衆たちが大型トレーラーに路地のオバらを乗せて一路皇居のある首都東京へと目指す『日輪の翼』、東京という大都会、都市の資本主義の中で性のサイボーグとして生きる路地出身の若衆を描いた『讃歌』を経て、都市において路地とは異なる、空手の道場と青アザという徴を軸に新たなる共同体を、「大東亜共栄圏」的な右翼的イデオロギーを軸に構築しようと模索し、南方へ移動していく『異族』へと至るのである。『異族』はそのため近代化による共同体崩壊後における人間の実存を問う作品であり、現代文学の最重要問題を内包している作品であると言える。資本主義による共同体崩壊後、人間は何によって生きるか。
神話なき世界における神話の模索、この現代文学における最も困難かつ緊近の課題に対して、共同体崩壊後の現代に生きる我々は、瞠目しまた剥目して、この重大事に立ち向かい、人間存在の現代における在り方を問い続けなくてはならない。そのための最良の作品。

社会学

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』M・ウェーバー 大塚久雄訳 岩波文庫

内容

営利の追求を敵視するピューリタリズムの経済倫理が実は近代資本主義の生誕に大きく貢献したのだという歴史の逆説を究明した画期的な論考。マックス・ヴェーバー(1864-1920)が生涯を賭けた広大な比較宗教社会学研究の出発点を画す。

コメント

日本にも優秀な社会学者は多い。見田宗介、大澤真幸、宮台真司、上野千鶴子、橋爪大三郎、作田啓一、小室直樹や政治学者姜尚中、思想家としての柄谷行人も広義の社会科学の学者に含めると、日本における学者・思想家の質はそう悪いとは言えない。もっとも、アメリカ・ドイツ・フランス・インド・中国等の世界レベルと比較すればどちらが上かはわからないが。さて、社会学、もしくは政治学・経済学・法学・法学等を含めた社会科学は、文学・哲学等の人文科学と並んで、文科系学問の基礎的な視点もしくは方法論である。
つまり社会科学の視点と方法論は大学における主に文系の学生の基本的な学問的姿勢となるべきものなのである。そして、哲学の基礎にいつもソクラテスがいるように、学問の基礎、社会科学の基礎、大学で学びうる文科系社会科学の基礎にはマックス・ウェーバーがいる。マックス・ウェーバーはデュルケムとは異なった形で独自の比較宗教社会学を構築した、19世紀末から20世紀初頭における知の巨人である。私は以前、社会学者になろうとして上記の社会学を独学した。見田宗介『気流の鳴る音』大澤真幸『身体の比較社会学』『行為の代数学』宮台真司『権力の予期理論』『サブカルチャー神話解体』フォン・ベルタランフィ『一般システム理論』N・ルーマン『社会システム理論』G・S・ブラウン『形式の法則』などを読み齧っていった。他にも以前の在学中には社会運動関連(思想一般)に関心を持ち、NGO活動を通じて環境問題、ジェンダー、ナショナリズム、政治学 開発援助、人権、国連についてなどを勉強会などで学んだ。京都会議にも参加したが、それ以外にも哲学をニーチェ『ツァラトストラ』ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』などから学んだり、宗教・思想一般を神道、仏教、キリスト教、儒教『論語』『孟子』『大学』『中庸』道教『老子』イスラム教『コーラン』その他に学んだりした。大学の授業で社会科学一般、社会学、論理学、心理学・ユング、フロイト、政治学、国際関係学、経済学・現代経済学、法学、文化人類学、民俗学、民族学、地理学、歴史学、教育学等に関心を持ったのはいうまでもない。これらの多様な要素を自己成長の為の栄養としながら学んでいたが、私の社会科学の視座、学問の視点の基礎にはいつもマックス・ウェーバーがいた。私は大学卒業後、主に労働と文学読書による自己発見、世界もしくは社会把握の為の疾風怒濤時代を迎え、中上健次を専門とする日本近現代文学研究者になるべく大学に再入学した。しかしその前の段階で、既に学問一般における基本的な視座は獲得していた。学問における基本的な視座を形成しなくてはならない。その最基礎であり最重要テキストがこの作品である。

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