大江健三郎
大江健三郎は日本の作家、エッセイスト、そしてノーベル賞受賞者である。多くの人々は彼は第二次世界大戦後の日本の偉大な小説家であると知っている。健三郎は四国の島の人里離れた山村で生まれ育った。少年時代、彼は第二次世界大戦の宣伝文句を信じていた。彼は国と天皇のために戦おうとしていた。けれども、戦争が終わり、そしてラジオで天皇の声を聞いた時、彼は天皇はただの人であると理解した。彼は幻滅を感じさせられた。そして、このことは彼の人生と作家活動に大きな影響を与えた。
十七歳で、健三郎は彼が暮らしていたところに大學がなかったので、上京した。1954年、彼は東京大学に入学した。東京で、彼は東京の言葉をおぼえなくてはならなかった。これが彼が書き始める契機である。彼は彼の家庭での絆が失われたと感じ、そして最初に彼の村の神話について書き始めた。1958年、彼は『飼育』(The Catchと訳された)、黒人の航空兵が逮捕され、村で拘留を受けたことを述べたこの作品で、名声ある芥川賞を受賞した。芥川賞を受賞することはピューリッツァー賞を受賞することと同じである。『飼育』の後、健三郎は最初の長編小説『芽むしり子撃ち』(1958、Nip The Buds, Shoot the Kids,1995)で、戦後の重要な作家として評価された。1963年、健三郎の息子光が生まれた。不幸にも、光には知的障害があった。健三郎の医者によれば、光は長く生きられない、そしてもし生き延びても、いくつかの発育の遅れがあるだろうと言った。健三郎と妻はたくさんの人々が殺された広島での記念式典から戻って来るまで、子どもについての決定はしないと決めた。広島で、健三郎は、彼と妻とで子どもを育てるべきであり、責任から逃れることはできないと悟った。生まれついて知的障害のある息子のことと広島への旅行は、健三郎の作家活動に新しい指示を与えた。彼は息子のことや、それに関連することについて書き始めた。『個人的な体験』(1964.Eng.Trans.1968)の物語は、脳にハンディキャップを持つ子どもと父の行動が描かれている。いくつかの物語では同様の事が続く。健三郎は彼の白痴の息子の物語と呼んでいる一連の物語で知られている。1945年9月の広島原爆投下のルポルタージュと意見が結び付いたところの『ヒロシマ・ノート』(1965 翻訳Hirosima Note 1995)には彼の新しい方向が見られる。1967年、健三郎は『万延元年のフットボール』(1967 The Silent Cryと翻訳された、1974)で絶賛をあびた。この小説は、複雑で知的な仕事、歴史、神話、文化的独自性、現代の危機に触れている。健三郎は更に生態学的な相反する論点を調べ続けた。『洪水はわが魂に及び』『同時代ゲーム』『治療棟』などはこれらの問題を含んでいる。『人生の親戚』という空想科学小説でベストセラーになった。
1994年、健三郎はノーベル文学賞を受賞した。ノーベル賞受賞後、すぐに日本で一番名誉ある文化勲章を受けることを断った。彼の左派としての政治上の信条で断った。なぜなら、彼は日本の政治を信頼していないからである。
(上記の文章は、『ノーベル・プライス・リーダース』の英語版より翻訳して引用した。参考までに。なので、ここの[参考]の文章は、筆者冨田のものではない。翻訳引用文である。あらかじめご理解頂きたい。)(とりあえずここまで。今後、ここに、多くのブックリストを加えていく。なので、このブックリストは、現在進行形で、発展途上のものである。)(終)