▼下記、クリックすると詳細がご覧になれます。
- 『枯木灘』中上健次著 小学館文庫
-
あらすじ
竹原秋幸は義理の兄の土建会社で働く二十六歳の若者である。秋幸の実父は浜村龍造という。浜村龍造は蠅の王として忌み嫌われてきた元流れ者、ならず者であった。龍造は路地の土地を放火・強盗などで不当に路地の住民を追い出し、そして安く買い叩いて手に入れた。過去に刑務所にも入っており、その他にも忌まわしい過去を持つ龍造は、しかし現在は土地の顔役となり、有力者に成り上がった男である。現在は材木商を営む龍造は、以前別れた女フサに産ませた秋幸をいとおしみ、自分の息子として自分の手の下に置こうとする。しかしフサは秋幸の義理の父繁蔵との間に家庭を築いており、龍造の関与を拒絶していた。秋幸は義理の父繁蔵のもとに育ったが、実父龍造の存在を意識せざるをえなかった。秋幸は土方をしながら、自らの血縁を感じ、その血の宿命に気づき、苦悩する。それは実兄の郁夫の自殺、義理の兄の文昭との関係、美恵の人生など、路地の複雑に入りくんだ血と人間模様が織り成す、宿命とも言える人間相関図であった。秋幸はふとした偶然から義理の妹さと子との間に肉体関係を結んでしまい、その不条理とも言える血の宿命に悩み苦しむ。これらの路地の血の宿命の中心に位置するのはいつもあの男、浜村龍造であった。龍造は秋幸とさと子との肉体関係を知るが、「かまん、かまん」と言い放ち、近親相姦のタブーをも超越しようとする。秋幸はそんな龍造に愛憎半ばする複雑な感情を抱くのであった。戦国大名で信長と戦い敗れた一向宗を引き連れて熊野新宮に落ち延びてきた、片足で片目の浜村孫一伝説を自らのルーツとする龍造は、秋幸の前に世界そのものとも、路地の神話ともとれる存在として立ちはだかるが、秋幸は秋幸とさと子との関係を象徴する「兄弟心中」の盆踊りが路地で行われたその晩、精霊流しの河のほとりで異母弟の秀雄を殺害し、龍造の神話を超克し自らの神話を構築しようとする。逮捕された秋幸は刑務所生活を送ることになるが、秀雄殺害で自ら神話の主となった秋幸は路地の新たな王子として王たる龍造との次なる葛藤へと向かうのであった。
感想
芥川賞受賞作『岬』の世界を引き継ぎ、『地の果て 至上の時』へと続く秋幸三部作の中心に位置する、中上作品において最も完成度の高い作品の一つである。著者中上の生地である紀州の熊野新宮を舞台とし、近親姦や肉親殺しといったギリシャ的世界を巧みに導入し、父と子、王と王子、父親殺しのテーマを龍造と秋幸の葛藤を描きながら描写した現代の神話である。いわば貴種流離端の現代版であり、流され王のテーマも組み入れられている。「浜村孫一」神話をも導入し、路地を舞台とした現代の神話を壮大なスケールで描いたこの作品は、日本の近代文学史上の困難を軽く乗り越え、ゲーテ、ドストエフスキー、フォークナーといった世界の近代文学の系譜と日本の物語文学の系譜を同時に受け継いだ、日本近現代文学史上の最高傑作である。
- 『こころ』夏目漱石著 岩波文庫
-
あらすじ
私は鎌倉の海岸で先生と知り合い、帰京してからもたびたび訪ねたが、先生に対して不思議な感じが消えなかった。奥さんも同様の感じを持っているらしかった。そこで、私は先生に過去を話してくれと頼んだ。私の真面目さを信じた先生は話す約束をした。大学を卒業して帰省すると、腎臓病で倒れて死を覚悟した父はことの外喜んだ。しかし、先生の遺書を受け取った私は、危篤の父を残して東京へ向かった。両親を亡くした私(先生)は、叔父に遺産を横領され、人間不信に陥って故郷を捨てた。東京の大学に通ううちに下宿の一人娘を愛するようになるが、猜疑心ゆえに告白できない。が、援助するつもりで同居させた友人のKに彼女への恋を先に告白され、動揺した先生はKを出し抜いて結婚を決めてしまった。Kはそのことに関しては何も言わず自殺した。結婚後も、人間の罪と寂しさとを感じ続けた私は、ついに明治の精神に殉死する決意をした。
感想
高校生ぐらいでよく読まれる作品。漱石の後期作品の一つで、全体の構成はミステリー風に謎解きの形を取っている。人間のエゴイズムについて描かれているということになっているが、作り物めいた点も多い。近代知識人の苦悩が恋愛とそのエゴの問題としてしか描かれていないというのは大きな欠陥であると思う。漱石は本当に近代を正面から受容したと言えるであろうか。漱石は三部作その他で描こうとしてはいるが、肝心な対決をついにしえなかったのではないかという気がする。評論・講演集など日本近代の宿命を描いた作品もあるが、学者作家の範疇を出ることができたのかどうかは疑問である。結局権力側の都合の良い、権力に無批判な「高等遊民」という形に日本知識人を追いやってしまった罪は大きいと考える。
この『こころ』というテキストには、人生、生活を生きる人間の生の苦悩や喜びという要素が感じられない。それは漱石自身が実際の人生経験に乏しく、文学ファンの作った文学になってしまったからなのではないかと思う。この作品で描かれている程度の苦悩で、たいていの人は自殺に至れないと思う。つまり観念に終始していると思う。この作品は学生、教員、大学教授といった、実人生を薄弱にしか持たない人々の間でのみリアリティを持つと思う。実社会にまみれ、権力や権威の横暴に苦しみながら生きている人間の深い苦悩には届かない作品であると思う。漱石の作品には一般に、日本の大衆の世界、庶民の世界はごくまれにしか描かれず、ほとんどの場合権威と権力を持つ側の世界しか描かれない。
この狭い世界だけでは、社会や人生の多種多様な世界を描くことは難しいと思う。
漱石は体制に危機感を与えるほどの社会と人間の本質を描き得たとは思えない。注記:夏目漱石『こころ』について、否定的な見解をこの時期(大学生ぐらいの時期)に出していましたが、現在(2022年)は肯定的な評価を出しています。肯定的な評価の詳細はこのブックリストの続編に書く予定をしていますので、お楽しみに。
- 『深い河』遠藤周作 講談社文庫
-
あらすじ
磯部の妻は末期癌を宣告された。磯部は看病するが、妻はこの地上に生まれ変わることを宣告して世を去る。磯部は妻を失い、虚ろな日々を送る。磯部はニュー・サイエンスの本を読み、生まれ変わりについて調べ始める。場面は飛んでインド観光の日本人ツアーの一行の話となる。磯部は、妻のボランティアに来ていた成瀬美津子という女性とこのツアー旅行で知り合う。成瀬美津子は学生時代、大津という神学生をからかい、弄び、棄てる体験をしていた。成瀬美津子は大金持ちの建築業者の息子と結婚する。成瀬美津子は後に大津がリヨンの神学校に入り、神父になる道を選んだことを聞く。成瀬は夫とフランスへ新婚旅行に行くが、その時成瀬はリヨンへ立ち寄り、大津と再会する。大津と美津子は神、大津の言うところの玉ねぎの意味と役割について話し合う。美津子は大津を退屈な男と思い、ホテルに帰るが、夫といる時に思い出すのは大津の不器用なようすだった。自分は何を求めているのか、と美津子は思うのだった。場面はインドツアーの日本人たちに戻り、今度は沼田の場合が語られる。沼田は日本植民地下の満州の大連で育った。李という中国人の男の子と仲良くなり、クロという捨て犬を飼うことにした。沼田少年とクロは仲良くなるが、沼田少年の両親が離婚することになり、沼田少年は母親と共に日本に帰国することになる。沼田少年とクロとの出会いは沼田を童話作家に成長させた。童話作家となった沼田のもとに犀鳥という鳥がやってくる。ピエロめいたこの鳥に沼田はイエスをなぞらえる。沼田はそのうち結核の再発で入院することになる。妻は心配し、犀鳥の代わりに九官鳥を沼田の友として選んでくれた。沼田は結核の治療で死にかけるが、奇跡的に助かる。沼田は九官鳥が自分の代わりに死んでくれたことを知り、恩を感じる。再び舞台はインドツアーの日本人たちに戻り、木口の場合が語られる。木口は戦争中、ビルマのジャングルで戦った経験を持っていた。塚田という戦友と木口は共に死線を越えた仲だった。塚田は酒の飲みすぎで入院する。木口は塚田の面倒を見る。塚田は戦争中、仲間の肉を食べたという苦しみにさいなやまされていた。ガストンさんというクリスチャンのボランティアの外国人が、アンデス山の飛行機遭難事故の際の人肉食の事例を語り、塚田の苦悩を救おうとする。塚田は静かに息をひきとった。再び日本人ツアーの話になる。磯部、成瀬、沼田、木口それぞれのインド旅行の目的と主旨が語られる。磯部と成瀬の会話のあと、成瀬と大津の手紙のやりとりが語られる。大津の玉ねぎと愛についての手紙が語られる。大津は汎神論の考え方でキリスト教を信仰していた。大津は玉ねぎは遍在するという。大津はインドで神父になったという話を成瀬は耳にする。日本人ツアー一行はガイドの江波のもと、観光を続けていき、ヴァーラーナスィの町へと入っていく。ナクサール・バガヴァティ寺でインドのヒンドゥーの女神と出会う日本人たち。チャームンダー像はインドのすべての苦しみを表わしながらも、萎びた乳房で乳を人間に与えているインドの母なる聖像であった。聖なる、母なるガンジスの流れを見る。一行はここで大津と出会う。大津はヒンドゥー教徒の死体運びを、愛の玉ねぎの信仰から行っていたのだった。
感想
愛と汎神論による世界宗教融和を目指した遠藤文学の最高峰。
- 『岬』中上健次著 小学館文庫
-
あらすじ
秋幸は土方をしていた。彼の兄は首をつった。彼は土方が好きだった。ただ無心につるはしをふるうのが好きだったのだ。親戚の美恵やアル中の弦叔父が登場する。兄は彼の今の年、二十四歳で死んだ。彼はあの男のことが気になっていた。彼は女郎に生ませた腹違いの兄弟のところに行ってみようと決意する。そのうち、古市が刺されたというニュースが入る。親方の兄、光子の兄の古市が、光子の亭主の安雄に刺された。一体何が原因なのかわからなかったが、突然起こってしまった。古市は亡くなり、葬式が行われた。秋幸は兄が自分と母のもとに刃物を持って殺しに来ていた頃のことを思い出す。兄は秋幸と母を殺すと脅す。母は自分のお腹を痛めた子どもが憎悪して自分たちを殺しに来るのはつらいと言う。兄はその時はそれでおさまった。兄は十二年前の女の節句の朝、首をつった。あまりにもあっけなかった。人が殺され、なにかが十二年前の元にもどった。しかし、人が人を刺すなどということは、あってはいかん。そんなことはすぐ忘れ、考えないのが一番良い。仕事をすることによって、日と共に働き、日と共に働きやめるいつもに戻れる。そう思った。コンクリを打つ仕事に戻る。姉の美恵は葬儀の翌日から、そのまま、姉は風邪と疲労のため寝込んでしまったのだった。突発した事件のほとぼりがさめないうちだったから、人々は姉に同情した。医者は肋膜の再発だ、と見立てた。それを聞いて、姉は泣いた。姉にしてみれば、なによりも一番恐ろしい病気だった。それが彼には、わかった。姉は満四歳の時肋膜を患い、父親からかわいがられて育った。姉が寝込んでから、母が足繁く通った。食事の用意と洗濯・掃除をした。母と姉の間で路地の昔話に花が咲く。母と秋幸は連れだって歩いて帰る。そしてあの男を想像する。あの男はバクチで検挙され豚箱に入っていた。母は、自分の他に二人の女がいることを知っていた。母は豚箱に出向き、自分で子どもを育てると宣告する。当時、腹違いの男親の血だけでつながった子どもが三人、ばたばた生まれた。母は男と縁を切り、一人で育てた。姉は一時期弱虫で泣き虫の子どもの姉に戻った。肋膜の再発は誤診だった。人夫たちは倉庫で酒盛りをした。秋幸は美恵に名古屋の姉に電話するよう頼まれる。秋幸は以前あの男に出会っていた。乗馬ズボンをはき、ばかでかいオートバイにまたがっていた。名古屋の芳子の一家が紀州に到着した。そして昔話を始める。母は刺殺事件についても語る。やがて法事の日がやってくる。法事がはじまる前、弦叔父がやってくる。それを引き金にして、美恵がおかしくなってしまう。
姉たちが待ちに待った父親の法事は、当の二人の姉がいないまま義理の父の家で行われた。母と兄、芳子、美恵の過去の関係が語られる。美恵はその法事の日から子どもになってしまったように甘えだした。秋幸は新地へ向かう。「弥生」で、娼婦まがいのことをして生計を立てている異母妹に出会う。家に帰った秋幸は家族みんなと以前のように岬へ出かけることになる。岬でお墓参りをする一族。その後、美恵は線路に飛び込もうとするが、未遂に終わる。光子や美恵、母、親方、秋幸の対話があり、弦叔父が来る。秋幸は男に報復するため、新地で異母妹と肉体関係を持つ。あの男への復讐が始まる。感想
中上文学の新たなスタートを切る秋幸三部作の開始を告げる傑作文芸作品。
- 『ライ麦畑でつかまえて』J.D.サリンジャー 野崎 孝訳 白水Uブックス
-
あらすじ
ホールデン・コールフィールドは高校生。名門の私立高校ペンシーを退学になり、歴史の先生のスペンサー先生に挨拶に行く。ホールデンは基本的に頭脳明晰にもかかわらず勉強せず、学校という制度だけではなくあらゆる制度に欺瞞を感じ、反発している。これまでもいくつかの高校を退学処分にされてきた。スペンサー先生の家に着き、奥さんに中に入れてもらう。スペンサー先生とホールデンとの間で放校処分についての話と歴史の成績の話などがされ、ホールデンは説教される。しかしホールデンはスペンサー先生の愛情を感じつつも、方向性の違いを感じ、別れを告げる。学生寮に戻ったホールデンは、アクリーやストラドレーターと話をする。それから食堂に行く。雪がつもったので、雪投げをする。ブロッサードとアクリーとホールデンは一緒に出かけ、遊んでくる。それからホールデンはストラドレーターのために作文を書く。弟のアリーの話が語られる。ストラドレーターが帰ってきて、ホールデンとけんかをする。ホールデンは子どもの世界を守ろうとしたのだった。アクリーと少し話した後、ホールデンは今夜中にでもペンシーから飛び出してやることを決意する。荷造りをし、寮を飛び出す。電車の中で、ホールデンはペンシーでの友達の母親に出会う。ニューヨークに着くと、ホールデンは電話ボックスに入り、誰かに電話をかけようとするが、適当な人物が見つからず、タクシーに乗る。タクシーの運転手にセントラル・パークの家鴨のことを聞く。それからエドモント・ホテルに泊まることにする。このホテルには変態が多かった。それから過去の知人の知人に電話するが、うまくいかない。それから妹のフィービーの話となる。ホールデンはホテルのナイトクラブへ出かけていく。三十代ぐらいの田舎の三人娘をダンスに誘い、一緒に踊る。タクシーに乗って、再びセントラル・パークの家鴨のことを聞く。アーニーの店に行き、リリアンと会う。ホールデンはホテルまでの道を歩いて帰る。エレベーターボーイに売春婦を押し付けられる。ホールデンは落ち込み、空想の中でアリーと話しはじめる。聖書とイエスの話を考える。エレベーターボーイがやってきて、金をたかっていく。ホールデンは自殺したい気分になる。翌日、サリー・ヘイズに電話をかけ、デートの約束をする。駅に出て、朝食をとる。エルクトン・ヒルズでの回想が入り、二人の尼さんに出会う。尼さんと『ロミオとジュリエット』の話をする。それから散歩をする。レコードを買い、ブロードウェイに行く。公園に入り、フィービーと会うために子どもに聞く。博物館へ向かう。そこからタクシーで「ビルトモア」へ行く。そこでサリーと会う。芝居を見て、それからラジオ・シティへアイススケートをしに行く。そこでホールデンは学校や社会制度に対する批判と不満を爆発させる。そしてマサチューセッツかヴァーモントに駆け落ちしようというようなことを言う。カール・ルースというフートン・スクール出でコロンビア大学生と連絡を取る。ラジオ・シティの映画館に入り、映画を見ての批評が語られる。ウィカー・バーへ行き、カール・ルースと会う。いつになったら大人になるのかと問われる。精神分析が必要だと言われる。酔っ払い、サリー・ヘイズに電話する。公園に入り、レコードを割ってしまう。公園で池と家鴨を見る。アリーの死んだ頃の回想をする。それから家へ向かう。両親に見つからないように、うまく忍び込む。D・Bの部屋に入り、フィービーの姿を眺めている。フィービーを起こし、話をする。ペンシーを放り出されたことをフィービーに知られる。そして「兄さんは世の中に起きることがなにもかもいやなんでしょ」と言われる。
好きなことを言ってみろと言われ、アリーが好きだと答える。フィービーと話をしているのも好きだというが、具体的な職業や行動指針は見つからない。しかし、広いライ麦畑があって、そこで小さな子どもたちがゲームをしていて、その子どもたちが危ない崖から落ちそうになったら、その子をつかまえてあげるという仕事、ライ麦畑のつかまえ役になりたいと言う。それからエルクトン・ヒルズのアントリーニ先生に電話をかける。それからフィービーとダンスをし、それから急にホールデンは泣き出してしまう。そして家を出て、アントリーニ先生の家に行く。アントリーニ先生は二週間前にホールデンの父親と会って話しをしていた。ホールデンがペンシーで勉強をしていないということを父親は悩んでいるらしい。アントリーニ先生の見解では、ホールデンは恐ろしい堕落の淵に向かって進んでいるようなそんな感じがするという。この堕落は特殊な堕落、恐ろしい堕落だという。底というものがなく、人生のある時期に、自分の置かれている環境がとうてい与えることができないものを捜し求めようとした人々がいるが、今の君もそれだという。そして、ウィルヘルム・シュテーケルという精神分析の学者が、「未成熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある」と書いた文章を引用する。そして自分の行きたい道がはっきりしたならば、学校に入り直し、教育や学識のある人間として進み直すべきだという。それから寝ようとするが、アントリーニ先生が寝ている自分の頭をなでているのに気づき、ホモ的な気がして家を飛び出す。回想しながら誤解だったかもと思うが、具合が悪くなり、吐いてしまう。食堂でコーヒーを飲み、五番街をさまよううちに、自分が下へと沈んでいく気がして、アリーに話しかける気になって、「アリー、僕の身体を消さないでくれよ」という。そして家にも学校にも戻らず、フィービーにだけ会って、さよならを言って、西部へ出発しようとする。おしでつんぼの人間のふりをして、同じような娘を見つけて、森のすぐ近くに住もうとする。フィービーに手紙を書き、学校に入り込む。壁の落書きを消し、世界中の落書きを消そうとする。それから博物館のミイラのある部屋に行き、便所の前で気が遠くなり、倒れる。起き上がると少し気分が良くなっていた。フィービーと公園で会う。フィービーも一緒に行きたいというが、だめだとホールデンは宣言する。学校に戻るように言い、ホールデンも家に戻るという。動物園に行き、回転木馬がやっていたので、ホールデンはフィービーを回転木馬に乗せてやる。「僕は今度にするよ。君を見ててあげる」とホールデンは言い、子どもは金色の輪なら輪を掴もうとしている時はそれをやらせておくより仕方なくて、なんにも言っちゃいけないという。落ちる時は落ちるが、何にも言ってはいけないという。雨が降り出し、ホールデンはフィービーの回り続けるのを見て、幸福な気持ちになる。感想
子どもが大人になる心の過程を描いた永遠の青春小説。人間存在の核心をついている。
- 『人間の土地』サン=テグジュぺリ 堀口大學 訳 新潮文庫
-
あらすじ
ぼくは定期航空の若い操縦士として、ラテコエール社に入社した。この会社がトゥールーズ=ダカール間の郵便飛行機の連絡を担っていたのだ。初フライトの前日、先輩ギヨメに相談し、スペインの航行上の注意、アドバイスをもらう。翌日、ぼくは三時に起き、バスに乗って空港へ行く。行く道で、ぼくは老サラリーマンたちに別れを告げる。この後、メルモスの例など、フライト体験談が語られる。ぼくもまた、経験談を語る。通信士ネリとぼくが遭難しかかったときの話だ。ネリとぼくは遭難し、空港を探して星の間を彷徨う。シズネロスから通信がきて、トゥールーズからも通信がきた。このような夜でなくとも、職業操縦士は農夫のように、気候や海流、山岳、雷電といった自然現象から様々な兆候を感じとっているのである。メルモスはカサブランカ=ダカール間のフランスによるサハラ越えの航空路を開拓した。次に、ブエノスアイレス=サンティアゴ間のアンデス山脈越えの航路開拓を命ぜられた。メルモスはその後アンデス夜間飛行、海洋を開拓していった。最後の十二年間の勤務の後、南大西洋を飛行中、メルモスは遭難した。ぼくは不帰順族の領内で不時着した。その一夜、ぼくらは共にクリスマスのように交歓しあった。ギヨメの話に移る。ギヨメはアンデス山脈横断途中で行方不明になっていた。ぼくらはギヨメを捜索する。七日目に奇跡的にギヨメは助かった。ギヨメはいかにして助かったかをぼくに語る。彼の真の美質は自分に責任を感ずる所にあるとぼくは語る。ぼくは機械の進歩について語る。飛行機と地球、砂漠、オアシスについて語る。サン=テグジュぺリは人間本来の姿を星や地球の間に探し、文明の行き先について語る。「精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる」と語る。
感想
この作品はサン=テグジュぺリの体験談に基づく物語であると同時に詩である。また、文明観や人間観の表明という側面も持っている。前半は郵便飛行機のパイロットとしての体験に基づく内容が主で、後半は砂漠での生活や文明観、詩、人間観の表明といった側面が強い。いわゆる物語文学とは異なり、フランスの随想文学の伝統を踏まえているとも言えるかもしれない。世紀の名著である。
- 『夜間飛行』サン=テグジュぺリ 堀口大學 訳
-
あらすじ
『夜間飛行』は郵便飛行業がまだ危険視されていた草創期に、事業の死活を賭けた夜間飛行に従事する人々の、人間の尊厳を確証する高邁な勇気にみちた行動を描いた作品。
ブエノスアイレスへ向けて、パタゴニア線の郵便機を操縦してきた操縦士ファビアンは順調にフライトをしていた。パタゴニアから、チリーから、パラグアイから、三つの別な飛行機がブエノスアイレス目がけて帰還の途中であった。会社の全航空路の責任を持っているリヴィエールは、長い現場での指揮と責任で疲れていたが、充実感もまた感じていた。操縦士ペルランはリヴィエールに飛行の危機をいかにして乗り切ったかについて語る。リヴィエールは規則を厳しくすることを考える。規則は人間を鍛えてくれるというのだ。リヴィエールは厳格さによって苦悩をも引きずっていく強い生活に向かって彼らを押しやらねばならないという。そしてそれだけが意義のある生活だという。監督ロビノーは元気がなかった。自分の身のみじめさを感じていたのだ。ロビノーは地質学、石が趣味であった。
ロビノーはペルランとの友情と職務の間で苦しむ。リヴィエールは町に出て、芸術を鑑賞し、燈台守の孤独生活に思い及ぶ。電話で起こされた操縦士の細君は、夫に思いを寄せる。夫が仕事に夢中になり、危険を犯すことに妻は反対であった。リヴィエールは夜の神秘や恐怖から部下を救い、闇と戦い続けることに情熱を燃やし、職務遂行を任務としていた。
ファビアンは暴風雨と格闘していた。ファビアンの妻はリヴィエールに電話する。妻と家庭の論理と職務の論理が葛藤する。ファビアンは遭難の危機にあった。ファビアンは空の落とし穴にかかり、星明りを目印に上昇する。彼の飛行機は突然浮き上がり、異様な静けさの世界に入ってしまう。彼は星座のあいだに迷い込み、遭難してしまう。ファビアンの妻は夫の死を次第に理解し、悲しみに沈む。リヴィエールは、ファビアン亡き後もパタゴニア線を継続し、任務を果たすことで勝利者となるのであった。感想
夜間飛行は職務を果たし続けるリヴィエールを主人公とし、ファビアンとその妻の関係、男の仕事の世界と妻や子どもの世界との葛藤を描いた作品。飛行シーンのリアリティーもよく出ている。責任感あるリヴィエールの仕事哲学が説得力を持って語られ、この哲学はサン=テグジュぺリの世界観、仕事観、人間哲学の表明としても読め、興味深い。
夜間飛行という危険な職務をこなすことで仲間同士の連帯感も高まり、人間同士の心の世界が広がり、また責任を果たすことで人間として成長し、尊厳を持つ過程が描かれ、そうした人間修行を行う操縦士たちを見守り、優しくそして厳しく導いていくリヴィエールのリーダーシップが象徴的に描かれ、印象深い作品として仕上がっている。
夜間飛行で見えるひとつひとつの明かりは人間の明かりであり、この心の明かりをつなげていくことこそ人間の幸福であると語られる。その意味で、夜間飛行とは人生の喩えであり、闇夜を切り裂き、幸福の明かりをつなげていく人生の豊かさを伝えようとしている作品であるとも言えるであろう。サン=テグジュぺリの作品群の中でも傑作の一つ。 - 『沈黙』遠藤周作 新潮文庫
-
あらすじ
ポルトガルのイエズス会教父フェレイラ牧師が長崎で「穴吊り」の拷問を受けて棄教したという知らせがローマ教会へ届いた。この教父は日本にいること二十数年、地区長という最高の重職にあり、司祭と信徒を統率してきた長老である。当時の日本はキリスト教迫害がひどくなっていた。多くのキリスト教信者が迫害され、拷問を受け、虐殺され始めた。
フランシスコ会の神父や修道士は長崎奉行竹中采女の残虐な行為で拷問されたが、勇気ある信徒たちは屈服しなかった。キリスト教徒たちの勇気ある行動をフェレイラ牧師はローマ教会に報告したので、このような熱心な教父が棄教するとはローマ教会にはどうしても思えなかった。そこでローマ教会のルビノ神父たちは迫害下の日本で潜伏棄教を行う計画を立てた。当時同様にポルトガルでも三人の若い司祭が同じような日本潜伏を企てていた。彼らはフェレイラの学生だった人たちである。ガルペ、サンタマルタ、ロドリゴの三人は、フェレイラの棄教が信じられなかった。そこで三人は事の真相を確かめるために日本へ向かうことにした。まずリスボンからインドへ向かい、アフリカ南端を廻るルートを辿ったが、この困難な航海で三人は苦労する。特にサンタマルタはインドのゴアへ着いてから航海中の疲労から病み、亡くなってしまう。残されたガルペとロドリゴは、ゴアのヴァリニャーノ師と接触し、日本布教の現状を聞く。二人はマカオへ行き、マカオで日本人キチジローと出会う。元信者と思われるキチジローと接触し、日本上陸の手引き役をさせる。ジャンク船を手に入れ、日本への航海を始める。途中で遭難するが、なんとか日本に辿り着くガルペとロドリゴそしてキチジロー。ガルペとロドリゴは日本の長崎の近くにあるトモギ村へ辿り着き、信徒の村民に匿われる。村の上方にある炭焼き小屋で潜伏しながら信徒の村民に福音を与える二人。そうした潜伏と宣教の日々のある日、外出中に二人の男に見つけられる。万一に備えるふたり。実は男は五島の信徒たちだった。五島の信徒たちに導かれて五島へ布教へいくロドリゴ。キチジローも五島の村民だった。五島の布教は成功するが、五島からトモギ村へ戻ったロドリゴを待ち受けていたのは奉行所の捜査だった。トモギ村は切支丹の疑いで手入れを受け、じいさまが拘引され、村民三人が代表で長崎奉行所へ送られる。モキチとイチゾウそしてキチジローが送られるが、キチジローは再び棄教し、モキチとイチゾウは裏切らなかったため、水磔の刑に処せられ、殺される。二人の死後、山狩りが始まり、ロドリゴとガルペは一人一人になって別れ、ロドリゴは放浪する。山をさまよい、キチジローと会い、干魚を食べさせられ飢えをひどくされるロドリゴ。キチジローはロドリゴを売り、ロドリゴは奉行所につかまる。ロドリゴのもとへ、通詞の男がやってきて、説得しようとするが、ロドリゴは受け付けない。そのうち長崎で井上筑後守の取調べが始まる。井上は一見温和ながらその実残虐な男だった。信仰へ寛容なふりをしながら、しだいに追い込んでいく井上。井上は信徒へやさしくしておきながら、惨殺する。ロドリゴは海へ連れて行かれ、ガルペとその信徒たちの殉教を見せられる。キチジローが再びやってきて、醜態を見せる。井上はロドリゴと対話し、次第に棄教へと追い込んでいく。井上はロドリゴをフェレイラへ会わせる。フェレイラは穴吊りの拷問によるのではなく、日本でのキリスト教の在り方に疑問を持ったから棄教したという。ロドリゴのキリスト教観が変貌していく。ロドリゴはついに穴吊りの直前で、他の信徒を救うため、棄教するのであった。棄教後、フェレイラと同様日本で暮らすロドリゴだが、従来のキリスト教とは異なる本当のイエスの愛と信仰があると考えるロドリゴであった。感想
真実のイエスの普遍的な愛と信仰の世界が提示された、遠藤文学最初の傑作。
- 『十九歳の地図』中上健次 小学館文庫
-
あらすじ
十九歳のぼくは予備校生と同時に新聞配達員。同じ部屋で働く紺野はうだつのあがらぬ三十男で、かさぶただらけのマリア様と呼ぶ女性と付き合っている。ぼくは生活に絶望しており、自由を欲している。毎日新聞配達をしながら生活するぼくは、あらゆる存在に苛立っている。隣りの家では男と女が始終喧嘩している。ぼくは新聞配達をしている区域の住民の家の地図を作り、その地図の上に罰印をかいていく。自分の気分を不快にさせた人や家は処罰の対象になるのだ。ぼくは神になったような気分で住民たちを処罰していく。 甘い暮らしをしている人たちが許せないのだ。ぼくは電話帳で配達区域の住民の電話番号を調べ、公衆電話からいたずら電話、いやがらせ電話、脅迫電話をかける。そうしていつもの日常の苛立ちを発散させるのだ。ぼくは唯一者としての自負と、新聞配達員という社会的身分との間で苛立つ。ぼくは犬の精神でかけまわるのだ。ぼくは予備校生だったが、予備校にはほとんど行かない。紺野は女を騙す手練手管を言う。紺野のいうことは嘘ばかりだ。隣りの家で再び喧嘩が始まる。ぼくは貧乏人が嫌いだという。あんな声を出して夫婦喧嘩し、性交し、子どもを生むという。紺野はかさぶただらけのマリア様に夢中だ。ぼくは地図作りに熱中する。ぼくに希望などない、予備校にいって大学へはいったってどうするというのだと考える。ぼくは東京駅へ電話をかけ、列車を爆破すると警告する。再び東京駅へ電話し、脅迫するぼく。ぼくは新聞を配りながら、健康な犬のように思えた。ぼくは広大なとてつもなく獰猛でしかも優しい精神そのものとしてノートに向かい合う。ぼくは完全な精神、ぼくは作り上げて破壊するもの、ぼくは神だった。かさぶただらけのマリア様は紺野に金を渡す。紺野はかさぶただらけのマリア様のこころがうれしく思うのだった。かさぶただらけのマリア様は本当に美しいと紺野はいう。しかし紺野のいうことはでたらめばかりであった。ぼくはかさぶただらけのマリア様へ電話する。ぼくは生きてるのが苦しいならさっさと死ねばいいと言う。マリア様は死ねないという。ぼくの体の中心部にあった硬く結晶した何かがとけてしまったように、眼の奥からさらさらしたあたたかい涙が流れ出した。ぼくはとめどなく流れ出すくもった涙に恍惚となりながら、立っていた。
感想
中上健次初期の傑作。新聞配達員の少年の苛立ちと心理が描かれている。この作品の重要な要素はかさぶただらけのマリア様である。かさぶただらけのマリア様は、生きることの喜びと苦悩を一身に背負った聖なる存在である。矛盾だらけの世界の中で、清きこころで生きるかさぶただらけのマリア様は、ただ清いだけのマリア様よりもっと崇高である。人々の苦悩へ寄り添って生きるかさぶただらけのマリア様は、人生と社会の苦しみ、悲しみ、喜び、楽しさなど人生のあらゆる人々の感情と一緒に歩き、あらゆる人間の生へ慈愛のこころで生きる。この慈愛が人々への愛となり、普遍的な愛の世界へ向かうこころとなるのである。かさぶただらけのマリア様は特定の宗教を越えて、あらゆる人類の普遍的な神として私たちの前へと降臨する。そのこころの世界は中上文学の世界の象徴だと言える。
- 『地の果て 至上の時』中上健次 小学館文庫
-
あらすじ
『枯木灘』での異母弟殺しから三年が経ち、秋幸は刑務所での服役を終えて紀州新宮へ戻ってくる。土地開発により、すっかり変わり果てた郷土の町で、幾多の噂にまみれながらも一代の分限者として君臨する「蠅の王」たる実父、浜村龍造。血の宿業で結ばれた秋幸の帰還を待ち受ける。「路地」の崩壊という状況下、浜村龍造やヨシ兄、鉄夫などの悪しき無法と「水の宗教」の齋藤とそれを取り巻く徹やさと子たちの宗教が入り乱れながら、秋幸はいかに生きるべきか、模索する。「蠅の王」浜村龍造に対して『岬』では秋幸とさと子との近親相姦、『枯木灘』では秋幸の秀雄殺しという形でその支配への反抗を行ってきた秋幸は、とうとう浜村龍造殺しへと向かうが、殺す直前、浜村龍造に自殺されてしまう。
感想
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』や、フォークナーのヨクナパトゥファ・サーガの水準、もしくはそれを上回る、中上健次文学の傑作の一つ。『岬』『枯木灘』と続いてきた秋幸サーガの最高到達点。
- 『千年の愉楽』中上健次 小学館文庫
-
あらすじ
熊野の「路地」へ生まれ、高貴かつ澱んだ血の継承者、「中本の一統」。その匂いたつような男ぶりへ色濃く反映される退廃の影。彼らの人生は一様に短い。放縦な生と早すぎる非業の死。自らの手で取り上げた子らを見つめ続ける老産婆オリュウノオバの、慈愛溢れる巫女のような眼へ映る生と死が、一統の血が積み重ねた愉楽が映し出される。熊野の神話世界が舞台となり、圧巻の豊かさが語られる路地千年間のストーリー。
感想
熊野の路地世界がオリュウノオバの語りから再構築される。神話世界が「半蔵の鳥」「六道の辻」「天狗の松」「天人五衰」「ラプラタ綺譚」「カンナカムイの翼」などの章ごとにまとめられている。中上文学世界の路地の神話世界の集大成。